水木しげる略年譜
1922年(大正11年)
3月8日 - 大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区)に武良亮一・琴江の二男として生まれ、生後まもなく父の故郷である鳥取県西伯郡境町(現在の境港市入船町)に戻る。
本籍地は鳥取県西伯郡境町(現・境港市)
1927年(昭和2年、5歳)
祖父の代からまかない婦として武良家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)に可愛がられ、強い影響を受ける。
1929年(昭和10年、7歳)
境尋常小学校(現・境港市立境小学校)に一年遅れて入学する。
1935年(昭和10年、13歳)
境尋常小学校を卒業。旧制中学校への受験を断念し、境尋常小学校高等科(境尋常高等小学校)へ進学。
1937年(昭和12年、15歳)
3月 - 境尋常高等小学校卒業。鳥取県を離れて大阪府の石版印刷所に入社するが2ヶ月で解雇になり、叔父のツテで寺田町にある版画社に再就職するがこれもすぐに解雇になる[18]。1938年(昭和13年、16歳)
画家を志し、精華美術学院に入学。
1939年(昭和14年、17歳)
大阪府立園芸学校を受験(定員50名受験者51名)に不合格。松下電器守口工場に職工として就職するが、わずか2日で解雇される
。その後、JR福知山線塚口駅前の新聞販売店に住み込みで新聞配達の仕事を始める[90]。1940年(昭和15年、18歳)
日本鉱業学校採掘科に合格。しかし授業内容に興味が持てず、半年で退学する。
1941年(昭和16年、19歳)
日本大学付属大阪夜間中学(現・大阪学園大阪高等学校)に合格。夜学び、昼働く勤労学生としての生活を送る。
1943年(昭和18年、21歳)
召集令状が届き、ラバウルへ出征。夜間中学側からは途中退学と見なされる。
1944年(昭和19年、22歳)
爆撃により左腕を失う。ニューギニアの病院で療養し、現地人のトライ族(水木いわく「土人」)たちと仲良くなる。
1945年(昭和20年、23歳)
敗戦。水木は現地人たちと仲良くなっていたため、「現地除隊」を申し出るが、説得され断念する。
1946年(昭和21年、24歳)
3月 - 復員。横須賀浦賀に駆逐艦雪風で上陸。
1948年(昭和23年、26歳)
武蔵野美術学校に入学を許可される(卒業はせず)。私生活では輪タク業や魚屋など職を転々とする。
1950年(昭和25年、28歳)
神戸で「水木荘」という抵当付きの古いアパートを資金を集めて買い取り、大家業を始める。
1951年(昭和26年、29歳)
大家業の傍ら、副業として下宿人の紹介で紙芝居制作を始める。
1953年(昭和28年、31歳)
アパート経営が行き詰まり、専業の紙芝居作家として生計を立てる。
BC級戦犯で巣鴨プリズンに拘留されていた兄・宗平が出所したので同居する。
1957年(昭和32年、35歳)
紙芝居業界に見切りをつけて単身上京し、亀戸に下宿。貸本漫画の処女作となる『ロケットマン』を2ヶ月かけて12月4日に完成させる。
1958年(昭和33年、36歳)
2月 - デビュー作『ロケットマン』を兎月書房から刊行。漫画家に転身する。
1959年(昭和34年、37歳)
調布に家を購入。1960年(昭和35年、38歳)
『少年戦記』の売れ行きが上々ゆえに兎月書房から水木が新たに責任編集したSF専門誌『宇宙少年』と怪奇専門誌『妖奇伝』が新創刊された。
前者には『ベビーZ水人間現る』を後者には鬼太郎の誕生編を描いた第一話『幽霊一家』第二話『幽霊一家・墓場鬼太郎』を発表。
1961年(昭和36年、39歳)
兎月書房より、『河童の三平』を刊行開始。40歳になる独身の水木を心配した両親が縁談の話を持ちかけ、布枝夫人とお見合いで結婚。
1963年(昭和38年、41歳)
東考社より、『悪魔くん』を刊行開始。
1964年(昭和39年、42歳)
青林堂の『ガロ』で雑誌デビュー。
1965年(昭和40年、43歳)
講談社の『別冊少年マガジン』でメジャー出版社デビュー。それまでの、大人向けの怪奇な画風から、子供向けの画風にするのに苦労したという。講談社児童漫画賞受賞。
1966年(昭和41年、44歳)
少年漫画路線が当たり、44歳にしてようやく人気を集め始める。『悪魔くん』が実写でテレビドラマ化。最初の放送は、実家の両親も上京して一緒に正座してテレビを鑑賞し、感激して番組終了後は拍手をしたという。
またこの頃からプロダクション制をとり、調布の自宅を水木プロとする。
1968年(昭和43年、46歳)
『墓場の鬼太郎』を当時の東映テレビ部長であった渡邊亮徳(元東映副社長)等のアドバイスにより『ゲゲゲの鬼太郎』と改名することで、スポンサーが了解してテレビアニメ放映開始。この時も、初回放送は一家で正座して鑑賞し、終了後拍手をしたという。
以降、何度もリメイクを繰り返す長寿シリーズとなる。
1971年(昭和46年、49歳)
『ゲゲゲの鬼太郎』が二度目のアニメ化。偶然再会した元上官の宮軍曹や戦友の石橋と3人で、26年ぶりにパプアニューギニアを訪れ、現地人たちと再会する。
以降、何度もニューギニアを訪れ、「ニューギニアに移住したい」と言うまでに惚れ込む。
1985年(昭和60年、63歳)
『ゲゲゲの鬼太郎』が三度目のアニメ化。
1989年(平成元年、67歳)
『悪魔くん』がアニメ化。
1990年(平成2年、68歳)
紙芝居作家から数えて画業生活40周年を迎える。『水木しげる画業四〇周年』(籠目舎)が刊行される。
1991年(平成3年、69歳)
NHKテレビでドラマ『のんのんばあとオレ』が放送される。翌年には続編が放送。
1992年(平成4年、70歳)
『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行。
1993年(平成5年、71歳)
宮田雪の案内で、ホピ族等のアメリカ・インディアンを探訪。この頃以降、「世界の妖怪」を求めて、自費で海外の奥地を「冒険旅行」するようになる。
1994年(平成6年、72歳)
「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展が開催される。以降、各地を巡回。
1995年(平成7年、73歳)
世界妖怪協会を設立して会長となる。会員は、荒俣宏、京極夏彦、多田克己ら。
「第6回東京平和の日平和展」の催しとして、「平和への祈り-水木しげる戦争体験絵画展」を開催。
1996年(平成8年、74歳)
『ゲゲゲの鬼太郎』が四度目のアニメ化。生まれ故郷、鳥取県境港市に「水木しげるロード」が敷設される。
8月、境港市において、世界妖怪協会主催の「世界妖怪会議」が開催される。以降、毎年夏に行われるようになる。
1997年(平成9年、75歳)
世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』が角川書店から刊行開始。
1998年(平成10年、76歳)
作画活動50周年を記念して、1,600枚の妖怪画の原画集『水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(むじゃら)』全8巻を翌年に掛けて刊行。
2003年(平成15年、81歳)
境港市に「水木しげる記念館」開館。2004年(平成16年、82歳)
荒俣宏・京極夏彦プロデュースによる「大(Oh!)水木しげる展 なまけものになりなさい」が鳥取県立博物館で開幕。以後、2006年まで全国巡回。
2005年(平成17年、83歳)
水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆき共同原案の映画『妖怪大戦争』が公開。
2006年(平成18年、84歳)
テレビ・ドキュメンタリーのため、荒俣宏とパプアニューギニア・セピック河へ。
2007年(平成19年、85歳)
『ゲゲゲの鬼太郎』が五度目のアニメ化。松竹によって『ゲゲゲの鬼太郎』が初の実写映画化。
『総員玉砕せよ!』が『鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜』のタイトルでテレビドラマ化。
2008年(平成20年、86歳)
アニメ版鬼太郎生誕40周年。それを記念して『墓場鬼太郎』が初のアニメ化。
「水木しげるの妖怪道五十三次 妖怪と遊ぼう」展がアメリカ・ワシントンDCにて開催。実写映画版2作目となる『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』(松竹)が公開。
2010年(平成22年、88歳)
妻の布枝の著書『ゲゲゲの女房』がドラマ化および映画化。
2013年(平成25年、91歳)
『水木しげる漫画大全集』(講談社)刊行開始。
ウイキペディアより